第56回岸田戯曲賞選評を読んだ。今回、選考委員が大幅に変わり、そして3作品同時受賞となったので、選評を楽しみにしていた。
ので、いくつか思ったことを書き連ねておきたい。しかしながら、まだ受賞作は読んでいないということを明記しておく。
多くの審査員が述べているように、3作が受賞したにもかかわらず、ドラマ性の強いものは受賞作には選ばれず、手法が独特なものが選ばれたといってよいだろう。
しかしケラさんが使っているそれらを「ポストドラマ」と呼んでよいのかについては非常に疑問を持つ。
マームとジプシーの藤田貴大さんの作品は、一度だけ『たゆたう、もえる』という作品を見たのだが、同一のシーンのリフレインを多用することで、既視感を抱かせ、幼少時代への感傷を誘うものだった。これは野田秀樹氏が述べていることに大幅同意する。
しかしそこではたしかに登場人物があるドラマを生きて行くというかたちで構成されてはいないのだが、たとえば日常的な瑣末な事件を繰り返すことの背景にはたしかに「ある家族」というものが想定されていて、描かれることがないからこそ、多くの人たちが抱く「ある家族」というものに寄りかかることで、その瑣末な事件が光り輝くという構造を持っていたように思う。ドラマ仕立てに描くことだけが「ドラマ演劇」ではあるまい。中心を描かず、周縁を描くことが、同時に中心を強化するという「中心と周縁」理論のごとく、ドラマ仕立てにしないということが、同時に大きな物語(ドラマ)に無意識的に寄りかかり、それらを礼賛していることもあろう。
話がうまく進まないが、マームとジプシーの芝居を二年前に見たときに、私は「こういう形で私たちはドラマを押し付けられていくのだ、窒息しそうだ」と感じて、非常に憤慨したのを憶えている。
マームとジプシーの話に執着しすぎているが、岡田利規氏の選評の最後の部分である「私は原則的に、オルタナティブな形式を用いてコンサバティブな価値観が提示されるのはたちの悪いカムフラージュのような気がする。そういったものに対しては原則的に警戒心を抱いている」というのは、まったくそのとおりと感じる。最近の小劇場で手法が新しいというような形で持ち上げられているものに対して自分が違和感を抱くのも同じ部分である。ドラマじゃないふりをして、たぶんにドラマであるものにこそ気をつけるべきだろう。ドラマはドラマですって顔をしてる分まだ分かりやすい。だから賞もとりにくいのだろうけど。
ということで、なんだか選評を利用して書きたいこと書いたみたいになってしまったが、受賞作を読んで、また思うことがあれば書いてみたい。
ちなみに松尾さんの「スリムクラブの人が喋るように読めばいいのか、などと悩みましたが」は最高でした。松尾さんの審査員としての戯曲への愛を感じた。