2009年 11月 06日
そういえば |
昨日は劇団会議の前に、清末さんとアルトゥロの脚本会議をした。そのまま上演すると三時間ちかくかかるであろう戯曲で、さらに二十人以上出演する芝居なので、戯曲の長さ・登場人物の数をカットしなければならない(上演するシアターPOOは狭めの小屋であるので、長時間上演には向かないのです、なので、三本とも一時間半より短い芝居を作ります)。どこをカットすると、だれをカットするか、という具体的な話にはならず、アルトゥロに関しての基本認識をお互いに話す。主な話題は、ブレヒトがアルトゥロを書いた時代とヒトラーの関係と、いま現在の時代とヒトラーの関係は決定的にことなるということだ。具体的なヒトラーの興隆を目の前にしてブレヒトはこの作品を書いた。まだヒトラーは死んでいないし、ホロコーストの事実も知られていない(はず)だし、もちろんヒトラーの対する歴史的反省も行われていない。それに対して、もちろん我々は様々な(とりあえず、様々なといっておく)ヒトラーに関する情報を手にしており、さまざまな形でヒトラーの表象された姿(映像や舞台、小説テレビetc)を眼にしている。ヒトラーとの社会的関係が違う以上、作品もかわらざるをえない。ブレヒトは原子爆弾が広島・日本に落とされたことをしったのちに、「ガリレイの生涯」のラストを書き換えた。ブレヒトが<社会>を問題にしていた以上、当たり前のことだ。しかし、だからといって、勝手にブレヒトの作品を歪曲する形で書き換えてしまっては意味がない。ブレヒトの書いた「アルトゥロ」がなにを目指していたのか。どのような社会・関係を問題にしていたのか。それを探りながら、ひとつずつ、ブレヒトの作品として、現代に最適な上演を目指したい。
というようなことを清末さんと話した。いや、話したというより、清末さんと話した結果、川口が思った、と書くのが適切か。
いい時間だった。
というようなことを清末さんと話した。いや、話したというより、清末さんと話した結果、川口が思った、と書くのが適切か。
いい時間だった。
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by torikoshi_anx
| 2009-11-06 16:54