2009年 10月 26日
唐組 |
唐組「盲導犬」を観にいった。池袋・鬼子母神神社にて。唐組は、昨年だったか、三鷹で観た「行商人ネモ」以来(のはず)。
盲導犬といえば、初演は蜷川幸雄演出、櫻社時代の作品である。蜷川の『演出術』を読んでいても、その初演がいかに素晴らしい上演であったのかが、よく伝わってくる。一週間前ぐらいに戯曲を手に入れて、三度ぐらい繰り返し読んでいたのだが、作品が読解できず。読解というのは理解とか、そういうことなのだけど、つまりは、「こいつを上演できる自信がねぇ」、ということで、なんでだ、悔しい。
唐組の上演で言えば、唐さんが研修生たち(五人)のうちのひとりを演じていて、脇役?脇役ってか悪く言っちゃえば端役で、驚くとともにすごくよかった。もちろん唐組さん自身が演出するから、なにやったってOK!みたいなことでもあるんだけど、戯曲では「研修生たち」と人くくりにされている人々のなかに、唐さんが入ってくることで、構造が一挙に(反則技的に)ダイナミックになっていた。昨日の風は乾いていて肌がかさかさして気持ちよかった。
ちなみに、『演出術』によると、蜷川演出だと、「(盲導犬を使う教師役は)『あっ、見えた なにがだ?……永遠、いってしまった海のことさあ 太陽もろとも……』なんて歌を歌う役ですから、日常をひっそりと我慢していきている、そんな身体を持った男の子たちをさがしてきたわけです。がにまただったり、足が短いとか、胴が長いとか、ありふれた俳優よりは醜い子たちを選んだ」らしい。この部分だけを引用すると、ちょっと嫌な感じがするかもしれないが、この発想を読むだけでも、戯曲を読み解き、その戯曲から独立した上演を生み出す力を感じる。
「盲導犬」が読めない、演出家として読みきれない自分の非力さがムカつく。
盲導犬といえば、初演は蜷川幸雄演出、櫻社時代の作品である。蜷川の『演出術』を読んでいても、その初演がいかに素晴らしい上演であったのかが、よく伝わってくる。一週間前ぐらいに戯曲を手に入れて、三度ぐらい繰り返し読んでいたのだが、作品が読解できず。読解というのは理解とか、そういうことなのだけど、つまりは、「こいつを上演できる自信がねぇ」、ということで、なんでだ、悔しい。
唐組の上演で言えば、唐さんが研修生たち(五人)のうちのひとりを演じていて、脇役?脇役ってか悪く言っちゃえば端役で、驚くとともにすごくよかった。もちろん唐組さん自身が演出するから、なにやったってOK!みたいなことでもあるんだけど、戯曲では「研修生たち」と人くくりにされている人々のなかに、唐さんが入ってくることで、構造が一挙に(反則技的に)ダイナミックになっていた。昨日の風は乾いていて肌がかさかさして気持ちよかった。
ちなみに、『演出術』によると、蜷川演出だと、「(盲導犬を使う教師役は)『あっ、見えた なにがだ?……永遠、いってしまった海のことさあ 太陽もろとも……』なんて歌を歌う役ですから、日常をひっそりと我慢していきている、そんな身体を持った男の子たちをさがしてきたわけです。がにまただったり、足が短いとか、胴が長いとか、ありふれた俳優よりは醜い子たちを選んだ」らしい。この部分だけを引用すると、ちょっと嫌な感じがするかもしれないが、この発想を読むだけでも、戯曲を読み解き、その戯曲から独立した上演を生み出す力を感じる。
「盲導犬」が読めない、演出家として読みきれない自分の非力さがムカつく。
by torikoshi_anx
| 2009-10-26 11:52