2009年 11月 22日
パラドックス定数 |
パラドックス定数「東京裁判」を金曜日に見に行った。脚本力・演出力・演技力ともに、小劇場演劇からは傑出していて、劇場にみなぎっている密度は非常に高い。
以前、パラドックス定数「インテレクチュアル・マスターベーション」の劇評をワンダーランドというサイトに掲載していただいたが、そのときに書いた疑問点は同じく感じた。つまり、戯曲が役者の魅力を最大限に引き出す装置になっており、さらには戯曲が役者に従属することで、典型的ドラマツルギーの温存を招いている、ということ。分かりにくいが、簡単に書くと、分かりやすいドラマを散りばめ、その要素をそれぞれのキャラクターに貼り付け、なにかあるぞ、と思わせながら話を展開させ、各自のエピソードを「ここぞ」というタイミングで爆発させる。
この戯曲のあり方は、〈社会派〉とはいえるかもしれないが(文学史の文脈ではどうなのかはよくわからない)、〈社会〉を描いているとは言えない。
しかし、それでいいのかもしれない。
パラドックス定数は今後も観に行き続けるだろう。
以前、パラドックス定数「インテレクチュアル・マスターベーション」の劇評をワンダーランドというサイトに掲載していただいたが、そのときに書いた疑問点は同じく感じた。つまり、戯曲が役者の魅力を最大限に引き出す装置になっており、さらには戯曲が役者に従属することで、典型的ドラマツルギーの温存を招いている、ということ。分かりにくいが、簡単に書くと、分かりやすいドラマを散りばめ、その要素をそれぞれのキャラクターに貼り付け、なにかあるぞ、と思わせながら話を展開させ、各自のエピソードを「ここぞ」というタイミングで爆発させる。
この戯曲のあり方は、〈社会派〉とはいえるかもしれないが(文学史の文脈ではどうなのかはよくわからない)、〈社会〉を描いているとは言えない。
しかし、それでいいのかもしれない。
パラドックス定数は今後も観に行き続けるだろう。
by torikoshi_anx
| 2009-11-22 07:14