2010年 01月 17日
更新が滞りました。 |
ひさしぶりの更新になります。稽古に必死になっておりました。いまだに必死です。どうやったらこの作品がよくなるのか、稽古場がよくなっていくのか、日々考えて続けております。少し前の記事で紹介した星野智幸の言葉ではないが、自分の身近な出来事を等身大で、身の丈で演じる芝居は非常につまらない。自分が見たいのは、戯曲の言葉に引っ張られ、触発され、はたまた目の前の相手の役者に引っ張られ、触発され、「等身大の自分」の向こう側へと飛躍する様である。「内輪」な言葉も出来事も見たくない。ひっしに他人と繋がろうとする(あるいは繋がれない)、役者のその様が見たいのだ。それはブレヒト作品であろうとなんであろうと、変わらない。この姿勢がぶれることはない(そもそも、ブレヒトも演劇的興奮というものを非常に熟知している、その興奮をどのように扱うか、その手つき、興奮との距離のとり方が、求められるのがブレヒト作品じゃないだろうか)。まだまだやれることをやりつくせていない。役者に、演技を変えろ、と求めるなら、日々、演出家もその先をいく変化・成長をしなければならぬ。
by torikoshi_anx
| 2010-01-17 00:31