2011年 02月 08日
映画など、雑感 |
鈴木清順にしても北野武にしても、中島哲也も宮崎駿も、子供とか老人の使い方が抜群すぎる。ああ、川島雄三もだなぁ。そして、そういう映画が好きなんだということに気づいた。あるいは、逆で、ぼくが好きな映画監督は、子供とか老人の使い方を心得ている人々なのかもしれない。能にしても、「隅田川」のラストで子供の亡霊が、いきなりのソプラノで登場すると空間は一気に変容するし、能の形式の中で、子供のある純粋性みたいなものが大爆発するのだが、歌舞伎にしても人形浄瑠璃にしても、そういう、「ある純粋性」みたいなものの取り出し方、扱う手つきは秀逸なのだよな。それってつまり、人生におけるある機微の取り出し方だし、事件の扱い方なのかもしれない。そういうところを雰囲気のなかに埋没させるやりかたは好きではなくて、やっぱりしっかりと形象化してほしいのだな。『悲劇の死』のなかでジョージ・スタイナーは「劇とは危機の形式的具体化に他ならない」と書いているが、「形象化」やら「具体化」についてもっと思考を進めなければなるまいな。
それにしても、「オペレッタ狸御殿」にしろ「パコと魔法の絵本」「下妻物語」、「崖の上のポニョ」「幕末太陽伝」「縞の背広の親分衆」などなど、素晴らしすぎるぜ。
そう、つまり、そのような「形象化」やらと、「晴れやかさ」との関係について考えたいのだ。
それにしても、「オペレッタ狸御殿」にしろ「パコと魔法の絵本」「下妻物語」、「崖の上のポニョ」「幕末太陽伝」「縞の背広の親分衆」などなど、素晴らしすぎるぜ。
そう、つまり、そのような「形象化」やらと、「晴れやかさ」との関係について考えたいのだ。
by torikoshi_anx
| 2011-02-08 03:38